名前は誰でも知っている 吉野ヶ里遺跡

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歴史の教科書にも出てくる吉野ヶ里遺跡は、日本人なら誰もが知っている遺跡の1つと言えるでしょう。そんな吉野ヶ里遺跡は歴史的にも多くの価値があり、歴史好きだけでなく、歴史に興味がない人もぜひ訪れていただきたい観光スポットです。そんな吉野ヶ里遺跡をご紹介します。

吉野ヶ里遺跡とは

佐賀県にある吉野ヶ里遺跡は弥生時代の姿を残した大規模な環濠集落跡であり、日本で最も大きな遺跡と言えるでしょう。当時の集落の姿を大きく残しているため、日本の古代の歴史を解明する上で、極めて重要な物や資料が集まっており、土出品の多くが国の重要文化財に指定され、吉野ヶ里遺跡自体も国の特別史跡に指定される程です。
現在は、吉野ヶ里遺跡とその周辺部が国営の公園として整備され、出土品の多くが展示され、実際に手で触ることもできるなど遺跡を身近に感じられるようになっています。また、当時の衣服の試着や食事体験等様々な体験企画があります。さらに公園内には、レストランや売店等もあり、観光客も訪れ、多くの人で賑わっています。

環濠集落とは

吉野ヶ里遺跡は環濠集落跡です。その環濠集落とは周りに堀をめぐらせた集落のことで、稲作農耕とともに大陸から弥生時代に入って来た集落の形です。この環濠集落は防御と拠点という特色があり、集落を防御する役割の物あり、また首長などの建物があり政治的・経済的な拠点があったと考えられています。これは当時から、首長権力や共同体の結束などそれまでとは違った集落の形があったと言えます。
吉野ヶ里遺跡が有名なのはこの環濠集落跡が大きく、この環濠集落の全貌が明らかになるきっかけとる遺跡だからです。

吉野ヶ里遺跡の発掘・研究

佐賀県では大正時代から遺跡の研究が始まり、弥生時代の土出品が多く発掘されたこの吉野ヶ里地区は昭和9年頃から研究されるようになりました。特に戦後は、吉野ヶ里地区にある三津永田遺跡から多くの甕棺や人骨が発見され、吉野ヶ里遺跡が考古学上でも注目され、その後も吉野ヶ里地区の研究は続いています。昭和61年頃には竪穴建物跡、建物柱穴などが検出され、弥生時代の歴史を解明する重要な遺跡となりました。
昭和56年頃、この吉野ヶ里地区を工業開発地域として開発の話がありましたが、多くの埋蔵文化財があるということで中止となるというできごとがありました。

吉野ヶ里遺跡周辺の観光

吉野ヶ里遺跡周辺には様々な歴史を感じられる観光スポットがあります。国史跡にも指定された姉川城跡や戦国時代に築城された直鳥城跡など、歴史好きにはたまらない場所です。
また、自然も楽しむことができます。道の駅吉野ヶ里では天然の湧水があり、無料で美味しい湧水が飲める他、この天然水を使ったパンが有名です。

吉野ヶ里遺跡は多くの人にその歴史を知ってもらうと楽しめる遺跡となっています。佐賀県は意外と知られていませんが有名な温泉もあり、食べ物も美味しいので、ぜひ家族旅行で訪れてみてはいかがでしょうか。
国内の観光ガイドはこちらがおすすめ。

幻の宮 斎宮跡

かつて斎王が済んだと言われる斎宮跡は三重県にある遺跡です。現在でも発掘が続けられていて、周辺には歴史博物館や史跡公園等があります。
斎宮跡は伊勢神宮とは切っても切り離せない遺跡です。そんな斎宮跡をご紹介したいと思います。

斎宮とは
斎宮は伊勢神宮に使える斎王が住む場所として、137ヘクタール余りの敷地に碁盤の目に道路が走り、伊勢神宮の社殿と同様な建物が100棟以上も立ち並ぶ大規模な場所だったようです。また、この斎宮には斎王が執務した斎宮寮と呼ばれる場所があり、官人や斎王に使える女官など合わせて500名以上の人々がいました。これは九州の太宰府に次ぐ大きな地方都市であったと言われています。
斎宮では和歌や貝合などの遊びも多く催され、都との往来も頻繁だったことから、この地方の文化の拠点であったと考えられています。
昭和45年に事前調査が行われ、昭和48年に斎宮が歴史・文化の解明をする上で非常に重要な遺産であることが分かり、その後、昭和54年に国指定とされました。

斎王とは
斎宮とは天照大神の御杖代として伊勢神宮に使えるために派遣されていた皇族の女性のことを指します。斎宮は天皇が代わるたびに交替され、南北朝時代まで続いたとされており、1221年の承九の乱の後に断絶されました。厳密には内新王の場合には斎内親王、女王の場合には斎女王と呼んでおり、2つを総称して「斎王」とされています。

斎宮跡の見どころ
斎宮跡には「さいくう発掘体感museum」というものがあり、斎宮跡の発掘調査現場を誰でも気軽に見学することが可能です。更には、毎月1回発掘調査が休日になる日に、古代文化体験イベントなどを実施しています。この他にも発掘調査を体験できる発掘調査も開講されており、発掘調査をより身近に感じることができます。
史跡公園「さいくう平安の杜」があり、そこには斎宮の建物が修復しています。斎宮歴史博物館には、斎宮跡から発掘された

斎宮跡周辺の観光スポット
斎宮跡周辺の観光スポットは何と言っても伊勢神宮です。伊勢神宮と結びつきが強かった斎宮ですので、伊勢神宮と合わせて観光することでより伊勢神宮が理解できることでしょう。
三重県の代表的な観光地である伊勢志摩も近く、豊かな海や、風情あふれる山を観光することもできます。

伊勢神宮や伊勢志摩が有名過ぎて、あまり注目されていない斎宮跡ですが、歴史深い斎宮跡を見ることでより伊勢という場所が古くからパワースポットであったことを感じることができると思います。

日本最大級の縄文時代の集落跡 三内丸山遺跡

青森県にある三内丸山遺跡は縄文時代の集落跡としては大規模な遺跡として有名です。縄文時代の自然環境や生活等を解明するために、現在でも発掘は行われています。そんな魅力あふれる三内丸山遺跡についてご紹介したいと思います。

三内丸山遺跡とは
三内丸山遺跡ははるか昔になりますが5500年前から4000年前の縄文時代の大規模な集落跡です。その大規模な集落には住居はもちろんのこと、墓、捨て場、道路そして、この三内丸山遺跡の代表と言ってもいい堀立柱建物や六本柱建物がありました。この遺跡の発掘から集落全体の様子や当時の自然環境等が具体的に解明されました。
また、膨大な量の縄文土器や石器が発掘され、中でも日本最大級の板状土偶などが出土しています。
2000年に国の特別史跡に指定されていて、遺跡敷地内には資料館も併設されています。
遺跡内ではタブレットを使った遺跡見学や、子供向けに詳しく遺跡を紹介するコンテンツなども用意されているほか、ボランティアガイドによる遺跡の案内なども行っています。

堀立柱建物・六本柱建物とは
掘立柱建物は地面に穴を掘り、土台となる礎石を使用せず、そのまま柱を立てた建物。この建築方式は民家建築として18世紀頃まで建てられていた方式です。
遺跡として残る掘立柱建物跡は柱を立てるための穴が規則的に配列されている事が多いのが特徴です。また、掘立建物の床が高いものを高床建物といい、この高床建物跡の場合、当時の生活の痕跡が残りにくいとされています。
六本柱建物は掘立柱建物として、縄文時代に出現した建物です。三内丸山遺跡で検出された六本柱建物は柱の大きさが評価され、当時の技術を知る上でもっとも重要なものです。また、大きさだけでなく三内丸山遺跡にある六本柱建物のすべてが柱穴の間隔・幅・深さが4.2m・2m・2mで統一されていたことが注目され、この三内丸山の集落に住んでいた人が高度な技術を持っていたことを証明するものだと言えます。さらにこの大きな建物を建てるにあたり多くの人が必要であったことから、この三内丸山には集落の人々を指導するリーダーがいたことが推測されています。
この六本柱建物は三内丸山遺跡内に復元されており、当時の素晴らしい技術を目で見ることができます。

縄文時代の最大の集落跡である三内丸山遺跡は、たくさんの子供向けのイベントや三内丸山遺跡のキャラクター「さんまる」を使用したコンテンツ、タブレットを資料した最先端のガイド方法を用意して、子供にもこの偉大な遺跡を知ってもらおうという努力が感じられます。遺跡と言うと子供が退屈してしまうイメージがありますが、三内丸山遺跡は子供も楽しめる遺跡です。

旧石器時代 岩宿遺跡

岩宿遺跡は群馬県にある旧石器時代の遺跡です。日本にも旧石器時代に人類が存在したということが証明された遺跡として有名です。旧石器時代は約3百万年または2百万年前に始まり、約1万年前に及ぶ時代です。そんな想像にも及ばない時代の遺跡をぜひ自分で見てみませんか?岩宿遺跡を紹介します。

岩宿遺跡とは
岩宿遺跡とは群馬県みどり市にあり、1946年に考古学者の相沢忠洋氏によって発見された遺跡です。当時は、土器時代より前には日本列島に人類は存在していないと思われていましたが、この岩宿遺跡の発見で旧石器時代にも日本列島に人類がいたことが証明されました。岩宿遺跡発見以降は全国各地で旧石器時代の遺跡の発見がありましたが、岩宿遺跡は日本の歴史において重要な遺跡であることは間違いありません。
現在は、近くに岩宿博物館も建ち、岩宿遺跡から発掘された石器を始め、縄文時代や弥生時代の展示も行われています。また、岩宿ドームでは旧石器時代の断層を見ることができます。

岩宿ドーム
岩宿遺跡の保護観察施設を「岩宿ドーム」と呼びます。岩宿遺跡は北側をA地点、南側をB地点と呼ばれていて、岩宿ドームはB地点にあたる断層を保存展示するために作られました。
この地層は3万年の地層と確認され、ここから打製石斧や掻器類、また2次加工が施された原石を打ち欠いて作った薄いかけらである剥片や、石核などが見つかっています。
またクリ材の炭水化物も多数が発見されており、旧石器時代から植物資源の活用をしていたことが明らかになっています。
ドームの中は無料でB地点の地層断面が見られる他、アニメ映画による岩宿遺跡の案内も上映されています。このアニメ映画は8分ほどの長さですが、実に分かりやすく旧石器時代を紹介していると評判です。

岩宿遺跡周辺の観光
岩宿遺跡の周辺には小平鍾乳洞があります。神秘的な鍾乳洞内に入り、学術的にも貴重な二次生成物を見ることもできます。併設されている公園では4月はサクラ、6月はアジサイ、紅葉もなども楽しめる他、キャンプ場もあるので家族で自然を楽しむことができます。
日本で有名な詩人・画家でもある星野富弘さんの美術館があり、星野さんの生きる喜びや勇気を感じられる作品を見ることができます。

岩宿遺跡は他の大きな遺跡と違い、展示物がほとんどで、子供向けのイベントなどは一切ないので、どちらかと言うと大人向けの遺跡といっていいでしょう。しかし、日本の歴史に大きく名前を刻む重要な遺跡です。大人同士でゆっくりと遺跡を見て、日本の旧石器時代について知るのもいいと思います。

アクセス抜群な登呂遺跡

静岡県にある登呂遺跡は弥生時代の集落・水田の遺跡です。戦時中に発見された遺跡としても有名です。8万㎡にもおよぶ広大な水田跡や住居跡など、歴史解明に大きな役割を果たした遺跡です。そんな登呂遺跡をご紹介します。

登呂遺跡とは
第二次世界大戦中、軍事工場建設工事の際に発見されたのがこの登呂遺跡です。最初はそのまま工事が進められるところでしたが、採掘された出土品が考古学者の目に止まり、この遺跡が歴史的な大発見であることを新聞で報じたのがきっかけで、この登呂遺跡の発掘が始まりました。軍事的制約が下のもとで行われた発掘は限界があったものの、この時の発掘品が歴史を紐解く上で多くの資料となったことは、いかに登呂遺跡が重要な遺跡であったことの証明でもあります。
そして戦後1947年に考古学・人類学・地質学など様々な学者たちが加わった日本で初めての総合発掘調査が行われ、水田跡や井戸跡、住居跡などが検出されています。また、その時に遺跡の名称として「登呂遺跡」と正式に決まりました。
現在は、公園として整備され博物館も隣接しています。その博物館では登呂遺跡で発掘された出土品の他に子供向けに野外学習体験として火起こし、脱穀体験や古代衣装の体験などを行っています。

登呂遺跡公園の魅力
登呂遺跡公園には弥生時代のムラが復元されています。ムラとは微高地を利用して建てられた住居、高床式倉庫などのことで、それらを間近で見ることができるのは登呂遺跡公園の魅力の1つです。
また、祭殿も再現されており、その大きさは幅7m、奥行4mにもなります。当時、祭殿は集落での儀式や会合などに使用されたと考えられており、住居とは違った意味合いを持つ建物です。
弥生時代の水田遺跡であるように、今でも公園内には水田があり、まるでここが弥生時代なのかと錯覚するような作りになっているのも魅力です。

登呂遺跡周辺の観光
登呂遺跡は東海道新幹線の駅でもある静岡駅からバスで10分程度という近さで、日本に多くある遺跡の中ではダントツのアクセスのよさです。それゆえ、登呂遺跡と合わせて静岡駅を中心にあちこちの観光が楽しめます。
例えば、近くは駿府城公園や、国の名勝地でもある日本平に行くこともできます。また、少し足を伸ばして浜松や浜名湖も行くことができます。

登呂遺跡は戦中・戦後の混乱の中でも多くの遺跡が発掘され、日本の歴史を知る上で重要な遺跡の1つです。静岡駅から近い立地から、他の観光地と合わせて観光できるのも魅力です。静岡と言えば、つい戦国時代を思い出しますが、この偉大な弥生時代の遺跡も訪れてはいかがでしょうか。